ポンペイ遺跡のある街の教会
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ランチは、オプショナルツアーに組み込まれています。
日本人向けに厳選したと言うメニューです。
他の国の人とメニューが違うので、
日本人だけ別れて、別席でいただきました。
美味しそうだったけど、昨日の今日で、
あまり食べられませんでした。
← いよいよこれから、ポンペイの遺跡の町に入ります。
旦那が言うには、30年前に来た時より、
かなり発掘が進んでいて、前回なかったところが
色々出てきているらしい。
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ポンペイは、紀元前8世紀にオスク人によって建設されたとも、
紀元前7世紀にエトルリア人によって、基礎が築かれたともいわれる。
しかし、紀元前425年にサムニウム人に支配され、
その後ローマの支配下に入り、都市開発がめざましい勢いで行われた。
その後、紀元62年頃の大地震を経て、紀元79年にベスビオ山の噴火により
ポンペイの町は6メートルもの火山灰に埋もれ、歴史から忘れ去られる。
そして、1700年の時を超えて、今から約200年前、
悲劇の日そのままの状態で、発掘されることになる。
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この広場は、クアドポルティコと言われていた、
大劇場の脇に設けられた、観客用休憩所、
と言われている。後に、剣闘士の宿舎として、
改造されたらしい。
上は、大劇場(野外劇場)跡。
丘の自然のくぼみを利用して作られた。 →
下は、小劇場(屋内劇場)跡。
オデオンと呼ばれる建物で、
自然の音響効果がすばらしい。 |
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街の様子。
一段低いところは、水路です。
← 人は、両脇の1段高いところを通行していた。
水路の中の飛び石のようなものは、
水路の中を歩くためのもの。
横断歩道のようなものです。
裕福な邸宅跡には、このような壁画が残っている。
こういった壁画が多数残っていることにより、
当時の生活の様子などがうかがえる。
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一般邸宅跡。
ただしこれだけの邸宅を持つと言うことは、
かなりの特権を持っていたということになる。
当時の食堂には、テーブルじゃなくて、ベッドがあった。
ベッドに寝そべって、ゆっくりと食事を取っていたらしい。
これは、犬の遺跡じゃなくて、
本物です。
何故か野良犬が住み着いてて、
ちゃんと役者やってるんだよね(笑)
別に誰もとがめないから住みやすいのかな?
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邸宅は2階建てだった。
これは2階に上がるための階段跡。
← でも、2階は天井が抜けて残っていない。
このような円柱に囲まれたところに
中庭があり、噴水があったり、池があったりする。
ぺリストリウムというらしい
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ララーリオのテルモポリオ、と呼ばれる
居酒屋跡。
この穴には、いろんな食材や水をいれていた。
また、ここからは、何とその日の売上金と思われる、
貨幣が見つかっている。
スタビアーネ浴場跡
こちらは、フリタギダリウムと言われる、狭い浴場。 →
こちらは、奥にあるのがナタティオといわれる、
プールのような広い浴場。
手前の広々とした体育場で運動してから、入浴する
といった形だったらしい。
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火山の噴火による犠牲者の石膏像
犠牲者の上に火山灰が降り積もり、そのまま固まって、
中の人肉部分は腐ってなくなってしまうと空洞ができる。
そこに、石膏液を流し込んで、犠牲者の体を再現した。
人肉こそ腐ってなくなってしまうけど、実は骨は残っているのです。なので、この石膏の中には、犠牲になった人の骨が埋め込まれている状態なのです。
← これが何の写真だったか、ちょっと思い出せない。
浴場の続きだと思うんだけど。
女性用浴場だったかな・・・
一般邸宅と、店舗との見分けは、
入り口をよく見るとわかる。
店舗は、このように間口が広く、
引き戸のような扉がある。
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白い矢印のもの、何だか分かりますか?
男性についているアレを象徴しているんだそうです。
この先に、娼館があるよと、教えてるんだそうですね。
いろんな国からいろんな人が集まってきてた地域だから、
言葉が通じないから、こういった象徴で表したらしいです。
ルパナーレと呼ばれていた娼館です。
かなりちゃんと残っています。
2階建てで、10の小部屋があり、
上の部屋はそれぞれ孤立しており、
比較的広い作りとなっている。 →
上客専用だったと考えられる。
また、1階の小部屋は2階より狭い上、
あまりプライベートを守ることができなかったようだ。
このような石のベッドの上に、
衛生的とはいえないマットレスが敷いてあったそうな。
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何をするところか、絵で説明してたらしい。
娼館で働く女性たちの仕事の様子が描かれている。
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モデストのパン屋跡。
左は、製粉用の挽き臼で、右はパン焼き釜。
なんと、パン焼き釜からは、81個の炭化したパンが
発見されたのだそうな。
どちらも、長い間火山灰に守られ、ほぼ完璧な形で
残っているが、その機能は、驚くほど近代的で、
焼き釜など、今の焼き釜とほとんど変わらない。
ポンペイでは、普通の商店でパンやフォッカッチャを
販売していたほか、行商人に販売を任せることも
あったことが、文献でわかる。
←こちらは、発掘した色々なものを保管している倉庫。 |
ここは、広大なフォーロ広場で、
宗教、市民、経済活動の中心地だった。
北側には、かつてジュピター神殿だった、
カピトリウムがそびえている。 →
カピトリウム向かいの広場南側には、
一連の台座が並んでいる。
ここには、名誉の像が立っていたと言われる。
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ポンペイ最初の守護神が祀られていたといわれる、
アポロ神殿。
エトルリア語の碑文がいくつか残っている。
ただ、その後のポンペイの市民生活、宗教生活
の中で、アポロ信仰は徐々に失われていき、
最高神ジュピター(ゼウス)にその座を譲ることになる。
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これは、バジリカ跡で、この台座のようなものは、
建物を支える柱だったと思われる。
バジリカは、町の経済の中心として、
重要な役割を果たした。
機能としては、今日でいう株式取り引き場に
たとえることができるが、特に商業・市民裁判の場
としての役割が大きかった。
帰りのバスの車窓から →
のどかな風景です。 |
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