イタリア旅行

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4日目 7月5日(水)です。

今日は、一日延期していた、ポンペイへのオプショナルツアーです。
ホテルで待っていると、7時過ぎに迎えに来てくれました。
で、外に車が待っているのかと思ったら、どんどん歩いていくので、ついて行くのに必死。
しばらく行くと、ちょっと小さめのバスが待っていた。で、彼はバスの、運転手だった。
でも、そのバスで行くのではなくて、テルミナ駅付近で集まって、
それぞれの行き先の大きな観光バスに分かれて乗っていくのでした。
他にも違うバスで迎えに行って帰ってきたりしたのもあって、大勢集まっていた。
私たちが乗ったバスには、日本人は2組だった。(もう1組は新婚旅行らしい・・・)
後は、アメリカ人とスペイン人。
なので、日本語で説明する添乗員と、英語とスペイン語で説明する添乗員の2人が乗ってきた。
で、道中、景色の説明をするときは、英語、スペイン語、日本語の順で説明してくれた。
さて、出発。







ローマの町を抜けて、
← もうすぐ高速に乗るというところの手前にある、
ポルタ・マジョーレの水道跡。
このような水道がまだあちこちに残っている。
私たちが乗っている観光バスです。
運転手はロザリオさん。
       素敵なお名前の男性です。      →
ここは、トイレ休憩でした。
高速を通っていく途中、
はるか、小高い山の上に、
←     モンテ・カッシーノ修道院が見えます。     
第2次世界大戦末期に完全に破壊されてしまいましたが、
戦後復元され、
今では、オリーブオイルで石鹸を作ったり、
クッキーなどを作って、PAにおろして売って貰い、
財源にしてるらしい。
オリーブオイル、買いました。
アッピア街道の松並木。
     イタリアの松は、日本の松とかなり違う。   →
からかさ松と一般に言われてて、
葉が上の方だけについている。

ナポリについて、海を見ながらちょっと休憩。
バスの運転手のロザリオさんと、
日本人添乗員のクミコさん。


この小さな少年は、アコーディオンを弾いて
チップをもらって生活してるらしい。
1ユーロ入れてあげたら、すごく喜んでた。


サンタ・ルチア港に浮かぶ卵城
もとは、豪華な別荘だったものが要塞になったり、
牢獄として使われていた時代もある。




今は市庁舎になっている、マスキオ・アンジョイーノ城。
ナポリの町。
ごちゃごちゃしてるけど、
手前の花がきれいです。

ナポリの町を抜けてしばらく行くと、
ベスビオ山が見えてきた。
← 左側が古いべスビオ火山(ソンマ山)で今はもう死火山。
右側はまだ活火山。
今ベスビオ火山というと、右側をさす。
でももともとは、この2つの山が1つでベスビオ火山だった。
噴火で中央がえぐれてしまったらしい。





途中、寄り道をして、
カメオの工場に行った。


カメオを作っているところ。
カメオ製作用のいろいろな貝。ピンクの貝がきれいだった。



カメオで作った、ランプシェード。とっても綺麗・・・

先生が作ったものと、お弟子さんが作ったものとでは、
値段がダントツに違う。
(私たちはお弟子さんので十分だけどね
。)
カメオ工場を後にして、やっとポンペイに着きました。
ポンペイ遺跡のある街の教会





ランチは、オプショナルツアーに組み込まれています。
日本人向けに厳選したと言うメニューです。
他の国の人とメニューが違うので、
日本人だけ別れて、別席でいただきました。
美味しそうだったけど、昨日の今日で、
あまり食べられませんでした。




← いよいよこれから、ポンペイの遺跡の町に入ります。   
旦那が言うには、30年前に来た時より、
かなり発掘が進んでいて、前回なかったところが
色々出てきているらしい。

ポンペイは、紀元前8世紀にオスク人によって建設されたとも、
紀元前7世紀にエトルリア人によって、基礎が築かれたともいわれる。
しかし、紀元前425年にサムニウム人に支配され、
その後ローマの支配下に入り、都市開発がめざましい勢いで行われた。
その後、紀元62年頃の大地震を経て、紀元79年にベスビオ山の噴火により
ポンペイの町は6メートルもの火山灰に埋もれ、歴史から忘れ去られる。
そして、1700年の時を超えて、今から約200年前、
悲劇の日そのままの状態で、発掘されることになる。


この広場は、クアドポルティコと言われていた、
大劇場の脇に設けられた、観客用休憩所、
と言われている。後に、剣闘士の宿舎として、
改造されたらしい。


上は、大劇場(野外劇場)跡。   
   丘の自然のくぼみを利用して作られた。 →

下は、小劇場(屋内劇場)跡。
オデオンと呼ばれる建物で、
自然の音響効果がすばらしい。





街の様子。
一段低いところは、水路です。
←   人は、両脇の1段高いところを通行していた。   
水路の中の飛び石のようなものは、
水路の中を歩くためのもの。
横断歩道のようなものです。




裕福な邸宅跡には、このような壁画が残っている。
こういった壁画が多数残っていることにより、
当時の生活の様子などがうかがえる。
↑ →
一般邸宅跡。
ただしこれだけの邸宅を持つと言うことは、
かなりの特権を持っていたということになる。
当時の食堂には、テーブルじゃなくて、ベッドがあった。
ベッドに寝そべって、ゆっくりと食事を取っていたらしい。



これは、犬の遺跡じゃなくて、
本物です。
何故か野良犬が住み着いてて、
ちゃんと役者やってるんだよね(笑)
別に誰もとがめないから住みやすいのかな?





邸宅は2階建てだった。
これは2階に上がるための階段跡。



← でも、2階は天井が抜けて残っていない。      





このような円柱に囲まれたところに
中庭があり、噴水があったり、池があったりする。
ぺリストリウムというらしい

ララーリオのテルモポリオ、と呼ばれる
居酒屋跡。
この穴には、いろんな食材や水をいれていた。
また、ここからは、何とその日の売上金と思われる、
貨幣が見つかっている。


スタビアーネ浴場跡
  こちらは、フリタギダリウムと言われる、狭い浴場。 →



こちらは、奥にあるのがナタティオといわれる、
プールのような広い浴場。
手前の広々とした体育場で運動してから、入浴する
といった形だったらしい。







火山の噴火による犠牲者の石膏像
犠牲者の上に火山灰が降り積もり、そのまま固まって、
中の人肉部分は腐ってなくなってしまうと空洞ができる。
そこに、石膏液を流し込んで、犠牲者の体を再現した。
人肉こそ腐ってなくなってしまうけど、実は骨は残っているのです。なので、この石膏の中には、犠牲になった人の骨が埋め込まれている状態なのです。

← これが何の写真だったか、ちょっと思い出せない。
浴場の続きだと思うんだけど。
女性用浴場だったかな・・・

一般邸宅と、店舗との見分けは、
入り口をよく見るとわかる。
店舗は、このように間口が広く、
引き戸のような扉がある。

白い矢印のもの、何だか分かりますか?
男性についているアレを象徴しているんだそうです。
この先に、娼館があるよと、教えてるんだそうですね。
いろんな国からいろんな人が集まってきてた地域だから、
言葉が通じないから、こういった象徴で表したらしいです。



ルパナーレと呼ばれていた娼館です。
かなりちゃんと残っています。
2階建てで、10の小部屋があり、
上の部屋はそれぞれ孤立しており、
        比較的広い作りとなっている。     →
上客専用だったと考えられる。



また、1階の小部屋は2階より狭い上、
あまりプライベートを守ることができなかったようだ。
このような石のベッドの上に、
衛生的とはいえないマットレスが敷いてあったそうな。




何をするところか、絵で説明してたらしい。
娼館で働く女性たちの仕事の様子が描かれている。




    ↑                 ↑     
モデストのパン屋跡。
左は、製粉用の挽き臼で、右はパン焼き釜。
なんと、パン焼き釜からは、81個の炭化したパンが
発見されたのだそうな。
どちらも、長い間火山灰に守られ、ほぼ完璧な形で
残っているが、その機能は、驚くほど近代的で、
焼き釜など、今の焼き釜とほとんど変わらない。
ポンペイでは、普通の商店でパンやフォッカッチャを
販売していたほか、行商人に販売を任せることも
あったことが、文献でわかる。



←こちらは、発掘した色々なものを保管している倉庫。
ここは、広大なフォーロ広場で、
宗教、市民、経済活動の中心地だった。
北側には、かつてジュピター神殿だった、
         カピトリウムがそびえている。       →
カピトリウム向かいの広場南側には、
一連の台座が並んでいる。
ここには、名誉の像が立っていたと言われる。




ポンペイ最初の守護神が祀られていたといわれる、
アポロ神殿。
エトルリア語の碑文がいくつか残っている。
ただ、その後のポンペイの市民生活、宗教生活
の中で、アポロ信仰は徐々に失われていき、
最高神ジュピター(ゼウス)にその座を譲ることになる。


これは、バジリカ跡で、この台座のようなものは、
建物を支える柱だったと思われる。
バジリカは、町の経済の中心として、
重要な役割を果たした。
機能としては、今日でいう株式取り引き場に
たとえることができるが、特に商業・市民裁判の場
としての役割が大きかった。



        帰りのバスの車窓から     →

のどかな風景です。
ポンペイの遺跡、素晴らしかったです。
当時のポンペイの人たちがこのような進んだ暮らしをしてた頃、
日本は、縄文から弥生時代といったところでしょうか。ちょっと悲しい・・・
もっと長い時間居て、もっとゆっくり見たかった。



                                                 5日目(最終日)へ続く・・・次へ